最近、生き方についてよく考える

最近、生きていき方についてよく考える。
社会人になり、会社員生活を過ごし、
もしかしたら人生の半分を生きてしまった。
働く毎日に思う。
今、自分ががんばるのは何のためだと。

…社長のためか?と思う。
社長しかり、上司しかり、
彼らの立てた方針・ビジョンに従い自分は動く。
もちろん間違っていると思えば異を唱えて正し、
与えられた枠内で自分なりの工夫を重ねる。
しかし、大きな船の行く先をどうにかできることはほとんどない。
彼らが密室で用意周到に仕立てた方針を突如聞かされてもひっくり返すことはできない。
結局与えられたポジションの中で与えられた役割を全うすることになる。

そんなんでいいのかと思う。
そんなことを繰り返し、給料をもらい、毎日を生きながらえ、
たまの休日に羽根を伸ばし、生きている実感を味わい、
家族と平穏に過ごせることに感謝し、また機械仕掛の月曜日が始まり、
繰り返し、繰り返して、歳を重ね、死に、人生を終えるのだ。
そんなのでいいのかと思う。

奴隷だなあと思う。
昔の奴隷はもっと過酷だったろうし、それに比べれば恵まれているんだろうけど、
会社の偉い人のために歯車となり、
代わりに食べ物と、小出しの幸福を与えられ、
ただただ人生を消化していくのは、
ナニモノかの奴隷だと思えてしまう。

一方で生き方は自由だ。
ならばと自分が社長になればいい。
以前なら当たり前のようにそう思えたかもしれない。
しかし、多少長くやった社会人生活で、
社長もまた、さまざまなものの奴隷であることを知っている。
社員が欲しがる自由は持っているかもしれないけれど。
いや、逆に違うことで、社員以上に不自由かもしれない。

この課題は、社長か社員かとかではなく、
その輪、その世界を抜けない限り根本からは解決しないのだ。
無職になるか?
どうせ長く生きたってしょうがない、
経済的事自由の代わりに人生の自由を手に入れるか。
いや、やはりこれも違う。少なくとも自分は社会との関わりを失いたくない。
経済的自由を失いたくない気持ちも少なからずあるけれど。


ふと我に返る。
手元にある持ち物をリストアップして、
これはいる、これはいらない、と考えていっても、
現状のチューニングにしかならない。
今回「考えてしまっている」ことは、きっとそれでは解決できないだろう。
そういう種類のものではないと思えるからだ。

引き続き、生き方について考えている。