お金という、社会の発展に生産力を貢献させるしくみについて

大学のゼミの先輩の鈴木さんと久しぶりに飲んだら、
こんなことを語っていた。


いわく、会社に行かず自分の思うままに毎日を過ごせたらないいなと思う。
働くことがイヤなわけじゃなくて拘束されるのがイヤだ。
自分の時間なのだから自分の気分に合わせて生きていければいいのに。


無職になって、気の向くままブラブラしたり、
趣味ややりたいことに没頭する生き方をしてはいけないわけではない。
だが、お金を得る手段を持たずに暮らしていくのは不可能だ。

お金ってなんだろうと、その存在そのものを考えた。
自分が欲しいものを手に入れるためのもの、
いや、もっと突き詰めるとこの社会への参加料じゃないかと鈴木さんは言う。
いろいろな福祉制度や仕組み制度で、社会から弾かれることはないけれど、
お金がないと最低限の参加しか許されない。
この社会に属するためお金は必須だ。

ここで逆の立場で考える。
なぜ社会はお金を払ってまで人を属させるのか。
社会を1つの生き物のように考えた際、
お金の対価に得ているものがあるはずだ。

「生産力、だと思うんだよね」
なぜそれがいるのか。
「社会もやはり、成長しつづけないといけない。維持は死だからね」
面白い考えだなと思った。

社会は成長したい。
そのためには生産力が必要。リソースと言い換えてもいい。
そこで人に金を与えて生産力を確保する。
お金があれば、その社会が持つ様々な恩恵を得られる。

逆に言えば、生産力の提供なくして社会の恩恵を得られることはない。
それでもよければ、働かなくていいと思うと鈴木さんは言う。
「でも、恩恵を得たいっしょ?」
自分たちが思う自由とは、今の社会基盤の上でのという前提がある。

自由を得るためには、社会に生産力を提供しなくてはいけない。
あるいは社会が望む貢献をしなくてはいけない。
それなしに自由を望んでも、社会は恩恵を自分たちには与えないのだ。